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稲作と日本の歴史

小田原市蓮正寺にお住いの皆さん、こんにちは!

小中学生対象の学習塾、清栄学舎午来(ごらい)です。


小田原市蓮正寺エリアにある当塾では、白山中学校・泉中学校・東富水小学校・富水小学校に通うお子さんを中心に、生徒を大募集しています!

もちろん、それ以外の学校にお通いの方も大歓迎!



ここ数日は稲作に関する話題ばかり投稿していますが、身近な出来事と勉強を関連付けることは大切だと思っているので、もう少しこの話題をこすっていきます。

今回は稲作と絡めて、日本の歴史をたどってみましょう。


日本で稲作が本格的に広まったのは弥生時代です。

それ以前の縄文時代、人々は狩猟や採集を中心に生活していました。

しかし、縄文時代の後期に稲作が伝わると、人々は田んぼを作り、定住生活を送るようになります。

農作業はみんなで力を合わせて行う必要があります。

その結果、村や共同体が誕生し、人々をまとめるリーダーも登場するようになりました。


また、収穫物などをめぐって、村同士の争いも起こるようになります。

佐賀県の吉野ケ里遺跡は、そういった争いから村を守る環濠集落の跡が発掘されたことで有名です。


稲作が定着したということは、単に食料を得る方法が変化したというだけでなく、社会の形そのものを変えることにつながったと言うことができます。


古墳時代から奈良時代にかけては、稲作と政治が密接につながっていきます。

律令制のもとでは「班田収授法」という土地制度が整えられ、田んぼが国家の管理のもとに配分されました。

中世になると荘園制度が発展し、収穫された米が年貢として納められる仕組みが広がります。

お米は、人々の暮らしを支えると同時に、政治や権力を動かす大きな基盤となっていきました。


江戸時代になると、お米は経済の中心となります。

年貢米は武士の給料や幕府の財政を支えました。

また、各藩の力は「石高(こくだか)」という米の収穫量で表されました。

つまり「米=国の力」だったのです。

さらに大坂では米の流通を担う米市場が発達し、いわば日本初の「先物取引」も行われました。

稲作は経済そのものを動かす原動力となっていたのです。


現代では「米=経済力」という単純な図式ではなくなりました

しかし、つい半年ほど前には米不足が大きな話題になって、世間に不安が広がったように、日本人の主食である米が我々の生活に与える影響は大きなものがあります。


稲作はただの食料生産ではなく、社会や歴史を形作る力でした。

弥生時代に始まった稲作は、日本の政治・経済・文化の基盤となり、今も私たちの食卓を支えています。

秋の田んぼを眺めながら、「お米が日本の歴史そのものを作ってきた」という視点で見てみると、また違った味わいを感じられるかもしれません。

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